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感動の拍手の渦と共に終了いたしました。

ゲスト:柱谷哲二氏
開催日
2009年9月6日(日)
場 所
M-SPO(新宿駅から徒歩5分)
ゲスト
柱谷哲二氏(サッカー元日本代表主将)

宮澤ミシェルのJトークライブはミシェル氏のJトークライブにかける熱い想いから始まりました。
サッカーの面白さを多くの人に伝いたい!!!
まだまだサッカーの面白さはテレビなどでは表現されていない・・・と語っていました。
Jリーグ創設からまだ17年しか立っていない
しかし17年の歴史すら今忘れていることが多い
多くの人がJリーグ立ち上げに関わり多くのファンの皆様に支えられてきたJリーグ
これから2010年のワールドカップに向けてそしてその先の日本のサッカーは世界に通用する強豪国になれるのか?
過去の経験を踏まえて、現在がありそして未来に向かって何が必要なのか?
毎回来ていただく素敵なゲストとともに日本の将来を語ってゆきたい・・・。
そのプロセスには一人ひとりが体験してきた人間模様がある、その大切な話を引き出してゆきたい・・・
今までに無い、スペシャルトークライブです。そんなところからスタートいたしました。

そして今回、栄えある第1回目のゲストに相応しい
Jリーグ開幕後、初の日本代表のキャプテン「闘将」 柱谷哲ニ 氏をお招きいたしました。
柱谷氏・ミシェル氏から先ずサラリーマンサッカー選手からプロ化に向けて
どんな動きがありJリーグの開幕を迎えることができたのか?
急激に湧いた1993年の開幕後の急変する環境にどのように対処してきたのか?
そして、柱谷氏からはあの初めて日本がワールドカップの椅子をかける夢をかけた大試合で、
残り1プレーで得点されその瞬間に夢を逃した いわゆる「ドーハの悲劇」の真相について・・・

当時のキャプテンだった柱谷氏から詳細を話して頂きました。
その時の事は鮮明に記憶されておりました。
その言葉のひとつひとつに、 世界で戦うプレッシャーと厳しさの凄さに会場は息を飲み込みました!
その戦う勇姿に多くの方が感動し何とも言えないスポーツの世界を感じていただいたこととおもいます。

その他「闘将」の由来についてや、現在の選手のこと勝負のメンタリティのこと色々な話がでてきました。サッカーファンは勿論の事、サッカーを知らない方でもサッカーに興味を持ち好きに成るような話が盛りだくさんでした。これからサッカーを見て見ようとおもいましたという方も沢山いらっしゃいました。
次回、10月10日(土)第2回Jトークライブはスペシャルゲスト 木村和司 氏をお招きいたします。
どんな話が聞けるのか?楽しみにしていてください。

生年月日
1964年7月15日
身 長
182cm
体 重
80kg
血液型
B
出身地
京都府京都市
出身校
京都商業高校(現・京都学園高校) 国士館大学
Jデビュー
1992年5月15日
代表歴
日本国際代表Aマッチ72試合出場6ゴール
ポジション
DF
柱谷哲二 - サッカーヒストリー
サッカー歴 1980 京都商業高校(現・京都学園高校)/全国総合体育大会1982年準優勝
1983 国士館大学/関東大学リーグ1984,1985優勝
1987 日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)
1992 ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)
1998 現役引退
チームタイトル 天皇杯優勝(1988,1989,1991)
アジアカップウィナーズカップ優勝(1991)
個人タイトル Jリーグ ベストイレブン(1993,1994,1995)
Jリーグ 功労選手賞(1999)
日本代表タイトル AFCアジアカップ優勝(1992)
キング・ファハド・カップ優勝(1995)
現役引退後 国士舘大学サッカー部 コーチ(2001〜2002)
公認S級指導者ライセンス取得(2002)
コンサドーレ札幌 監督(2002)
浦和レッドダイヤモンズ コーチ(2003〜2005)
東京ヴェルディ1969 コーチ(2006〜2007)
東京ヴェルディ1969 監督(2008)
略歴 京都商業高校(現・京都学園高校)3年生のときに全国高校サッカー選手権出場を果たし、
国士舘大学に進学。卒業後は日産自動車サッカー部(現・横 浜F・マリノス)に所属。
守備的ミッドフィルダー(MF)、ディフェンダー(DF)としてプレーした。
Jリーグ開幕の前年にはヴェルディ川崎(現・東京 ヴェルディ1969)に移籍してヴェルディの
Jリーグ2連覇に貢献。
日本代表には1988年初選出され、デビュー戦となったアラブ首長国連邦(UAE)戦 では初
ゴールを決めた。また、1993年10月28日、カタール・ドーハで行われた日本代表とイラク
代表のFIFAアメリカ・ワールドカップ アジア地区最終予選において、試合終了間際のロス
タイムにイラク代表のコーナーキックから同点ゴールが入り、日本の予選敗退が決まった、
いわゆる「ドーハ の悲劇」のときの日本代表主将。
日本代表としては、通算出場試合100試合(国際Aマッチ72試合、6得点)。
日本リーグ(JSL)・Jリーグ通算で 280試合に出場した。
1998年に現役を引退し、1999年、Jリーグ功労選手賞を受賞。
「闘将」とよばれ、敵味方にかかわらず、ピッチ上で選手を鼓舞した。
その姿勢はチームに緊張感と集中力をもたらした。
また、細やかな気配りを見せる一面も あり、日本代表横山監督、オフト監督、ファルカン
監督、加茂監督の下、長く日本代表主将を務めた。