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第5回JTL・・・松木さんの「覚悟」を決めた戦いに、会場も惹きこまれました。
松木さんしか知らない世界を、疑似体験させて頂きました!

ゲスト:松木安太郎氏
開催日
2010年4月23日(金)
場 所
OVE 南青山
ゲスト
松木安太郎氏

今回は、始めからテンションの高いハイパワートークになりました。
過去のJTLを見ても初めてゲストがミシェル氏を上回るパワーに,あのミシェル氏も押され気味でした。
テレビで見る松木さんがそのまま登場!という感じでスタートいたしました。

子供の頃、松木さんがサッカーと出会うきっかけは、特に好きというわけではなく友達と一緒に居たいからという理由だったようです。中学時代まではゴールキーバーだったそうです。
将来については、実家である日本橋の老舗うなぎ屋を継ぐようにと、元十両力士だった祖父にすすめられていたと言います。その松木さんがなぜ?プロサッカー選手になったか?その辺りからJトークライブは始まりました。
今日、松木さんは、今まで話した事が無い・・・と言いながら話すケースが何度もありました。

松木さんと言うと、監督のイメージが強く、現役時代を知る人は余りいません。
特に30代以下の方やサッカーのマニアでない限りその姿は知られておりません。
監督になるような人ですから現役時代から凄い選手でした。

選手時代のことを一緒に戦ったこともある宮澤ミシェル氏から現役時代のエピソードやロサンゼルス・オリンピックやソウル・オリンピックそしてメキシコ・ワールドカップ出場に向け、日本代表選手として世界にチャレンジ、そして国内大会でも天皇は優勝3度、日本リーグ優勝3回など輝かしい成績を収めていたスター選手でありました。その活躍レコードはMCの日々野真理さんから紹介があり、皆さんの記憶の中に監督松木安太郎だけでなく選手としての松木安太郎さんの印象も強く記憶された事と思います。

そして・・・

今回のメインテーマは、サッカーの歴史が始まる1993年のJリーグ誕生時に、スター軍団であるヴェルディ川崎の初代監督として2年連続のチャンピオンシップに輝き、チームも選手もそして、松木さんもその後の人生を大きく左右する偉業を成し遂げることになった、その軌跡と監督としての手腕について深く話が進みました。

今回は、宮澤ミシェル氏より、なぜ?あの時にヴェルディの監督に選ばれたのか?どんな経緯で大監督の座を得ることになったのか?そして何よりもあの個性派集団を優勝に導いた手法に焦点が当てられました。
スポーツの世界は、スター選手が集り過ぎると、逆にチームワークが作れず、方針が纏まらないため、監督としては、恵まれながら最もリーダーシップが発揮しずらい大変難しいケースなのです。

スター選手が居れば、放っておいても勝てるというほど、実は甘くありません。その証拠に開幕前半のファーストステージは、チームがバラバラのため、実力はNO1と言われながら鹿島アントラーズに優勝を持って行かれたのです。そこから松木さんの手腕により、逆転劇を巻き起こします。後半戦そして年間のチャンピオンに到達するまでの経緯や努力について松木さんは冷静に、そして時にはインパクトを持って話されていました。テレビで見る松木さんとは違う一面が見られました。

実は松木さんにはプロになって4回サッカーを辞めようと思ったことが有ると言いました。
Jリーグが始まる前のコーチ時代に2回、そしてJリーグが始まって監督になって2回・・・自分は、このままではサッカーを続けられなくなる日が来る。そう予感をした日々のことです。
選手からユースの監督になって、年棒が3分の1になり妻と小さい子供を食べさせて行けない、生活が維持出来ない状況が近づき、現役中に買った車や贅沢ものは全て売り払ったと言います。
この生活を維持するために、何か違う商売を探さなければ・・・真剣に考えていたそうです。

翌年、ある出来事によりトップリーグのコーチに引っ張られることになりました。
今度は生活維持だけの問題だけでなくブラジル人監督に仕えながらも認められないコーチ時代があったそうです。何でこんなことを続けなければいけないのか???
今度は、存在自体を否定されている環境下で指導者としてもモチベーションが維持できなくなったと言います。
先が見えない!将来が不安だけと自分に大丈夫だと言い聞かせ、前を向き続けたそうです。
今振り返ってみると、目の前の事を真剣に前向きに取り組んでいても、何でこんなことが起きるのか?色々有る・・・
ヴェルディの監督を辞めた時、優勝監督なのに、解雇されたら途端、何も仕事が来なかった。3カ月も4カ月も無職のまま、小さい娘と公園に散歩に行く日々を送っていた。
「だけど大丈夫なんだよな!」
松木さんはそう語り始めました。
「捨てる神あれば拾う神あり。その都度、自分が強くなって行くんだよ!そうすると明るくなれるんだよね!
だから、どうしたら生きて行けるのか?
どうしたら食って行けるのか?
思う事は大事なことなんだよ!
人間の奥行きが変わる時なんだ!」
松木さんの話に会場も息をのみました。

やはり、そこには松木さんしか知らない、凄い世界がありました。
あの明るさ、元気さ、強いオーラがどこから来ていてのが会場にお越しの皆様は解った事と思います。
プレッシャーの掛るなかで堂々と采配を振るう背景には強い「覚悟」がありました。
あのスター軍団のヴェルディ川崎がもし、開幕3年間に一度もチャンピオンになって居なかったら、ラモス、カズ、北澤、武田・・・などの選手を潰してしまったかもしれません。そして松木さん自身もその後、セレッソ大阪、そして東京ヴェルディの監督となる事もまた、無かったのではないかと思います。

それだけ、Jリーグの歴史を作った立ち上がりの2年間を優勝に導いた松木監督の偉業をあらためて確認することが出来ました。重大な責務を任されたビジネスリーダーの方々には、その孤独な戦いの日々が想像できたことかと思います。そしてその期待と重圧を見事に乗り切ったリーダーとしての資質を感じて頂けたかと思います。

この時期に松木さんをお呼びしたいと思っていても、テレビで忙しい松木さんに来て頂くことは大変難しいことで、ましては丁度ワールドカップの前の取材が多い時期ですから尚更でした。
今回お越しいただきました皆様も大変幸運で有ったのではないかと思います。
またその様な中、お越しいただきました松木さん・マネージャーさんに感謝いたします。
そして、最後まで真剣に話を聞いて頂きましたご参加の皆様へ心より感謝申し上げます。

神藤啓司
生年月日
1957年(昭和32年)11月28日
身 長
168p
体 重
68s
血液型
A型
家 族
妻と3女
出身地
東京都中央区日本橋
出身校
暁星小・中・高−堀越高校−日本体育大学
サッカ−以外のスポ−ツ
ゴルフ(上手くなりたい)
好きな言葉
『前向き』『ネバ−ギブアップ』
好きな色
ブル−・赤
松木 安太郎 - サッカーヒストリー
小学校4年で読売サッカ−クラブ入部、以降読売サッカ−クラブのみ所属
高校時代GKからDFにポジション変更、ユ−ス代表に選ばれる。
16歳にして読売サッカ−クラブ・トップチ−ム(当時日本リ−グ2部)に最年少選手として登録され、トップレベルのプレ−を開始。
日本リ−グ1部:12年間登録 208試合 7得点 9アシスト
日本代表  
1983年〜1987年 ロスアンゼルス五輪予選、メキシコ・ワ−ルドカップ予選、
ソウル五輪予選、キリンカップ等に右サイドバックで出場
タイトル 日本リ−グ優勝3回(‘83〜‘87)
天皇杯優勝3回(‘84‘86‘87)
JSLカップ優勝2回(‘79‘85)
第7回アジアクラブ選手権(‘87〜‘88)


監督歴  
1990年 現役引退と同時に読売サッカ−クラブ・ユ−ス監督に就任
全国クラブユ−ス選手権優勝
1991年 読売サッカ−クラブ・トップチ−ムヘッドコ−チに就任
タイトル 日本リ−グ(‘91〜‘92)
JSLカップ(‘91〜‘92)
ゼロックス・チャンピオンズ・カップ(‘91〜‘92)
Jリ−グヤマザキナビスコカップ(‘92〜‘93)
1993年 読売サッカ−クラブ・トップチ−ム監督に就任
タイトル Jリーグサントリ−シリ−ズ 2位(‘93〜‘94)
ニコスシリ−ズ 優勝(  〃 )
ヤマザキナビスコカップ 優勝(  〃 )
グランドチャンピオンシップ 優勝(  〃 )
ナビスコカップ  ( ‘94 )
サントリ−シリ−ズチャンピオンシップ 優勝( ‘94 )
ゼロックスス−パ−カップ 優勝( ‘94 )
優秀監督賞(‘93‘94)
1995年 同チ−ムを離れる(日本サッカ−協会公認コ−チS・B・C級所持)
1998年 大阪サッカ−クラブ・トップチ−ム監督に就任
1998年 同チ−ムを離れる
2001年 日本テレビフットボ−ルクラブトップチ−ム監督に就任
2001年 同チ−ムを離れる